「ラテン語の発音・カナ表記についてのガイドライン」,補足および改訂

 
 続き。基本的には前回の記述でOKだと思っているのだが,もう少していねいに書いてみる。
 わたしが参考にした文献・サイトのことから。
 まず,古典ラテン語を無視することはできないと考えるので,中世以降の「教会ラテン語」のみを掲げている「教会音楽」関係のサイトは参考にしなかった。
 それらを除けば,「ラテン語入門・学習教科書」および「学名について述べているもの」に限られてくる。絞ってみても,発音について拾っていくと色々である。「英語風の発音」を前面に出したものはさすがにないが,あとは何でもありに近似している。
 おびただしい資料の中から,わたしがカナ表記について重要とみなす書籍・サイトの幾つかについて見ていく。(もちろん見落としている重要なものも数多あると思う。それらは縁があれば後日)。
 

古典ラテン語についてのもの

 議論・問題になりそうな幾つかの項目に着目して見ていく。
1:「y」について
2:二重母音「ae」「oe」について
3:同一子音が二重になっている場合について
4:「ph」について
  
 A。水谷智洋編,改訂版羅和辞典;研究社,2009
1: y は[y]。
2: 特記なし。
3: 同じ子音が重なっているときは,その子音を2度発音する。
4: ph は[ph]。
 
 B。中山恒夫,古典ラテン文法;白水社,2007
1: y はフランス語のu,ドイツ語のüと同じ発音[y]であるが,カナにすると「ユ,ユ−」になる。
2: ae,oe は,建前としては「アイ,オイ」であるが,聴覚印象はむしろ「アエ,オエ」に近かったと思われる。日本では,ギリシア語中心の古典学者(とくに言語学者)は「アイ,オイ」を好み,ラテン語重視の古典学者は「アエ,オエ」を好む。
3: 重なった同じ子音はイタリア語と同じように,2倍の長さにする積りで読む。本書では仮名書きにするときに,ll,rr もtt,ss などと同じように促音「ッ」で表記するが,一般には「ル」「」を使うこともある。puella「少女」プエッラ,プエルラ,プエラ。複合語の場合は「ル」にした方が,分かり易いかもしれない。interrogo「尋ねる」インテルロゴ−。
4: ph は[p+有気母音]であって,ロ−マ人が実際にどう発音したのかは分からないし,われわれも[p]と区別して発音することはできない。
 
 C。W. S. Allen,Vox Latina;Cambridge Unversity Press,1965
1: ギリシア語Υ(υ)はラテン語の u として[ü]の発音であったが,後期ラテン語ではラテン語 i とされることが出てきた。
2: ae はギリシア語αι,oe はοιのラテン化から。はじめは「アイ,オイ」だったが(後には)「アエ,オエ」となる。中世では短母音化し,どちらも「エ−」とされる。
3: 「二重に(=長く)」発音する。英語の複合語(たとえばbus−service)の発音を参照。
4: ph を[f]としない。英語の pig を強調して発音したものになる。
 
 D。大村雄治,大村実習ラテン語白水社,1963
1: y は[ユ]。
2: ae は[アエ],oe は[オエ]。
3: ラテン語では総ての文字を発音する。同じ子音が重なっている場合は個々に発音する。
4: ph は[p’]。
 
 要するに,「古典学者的」には,y はユ,ph はパ行でカナ表記するのがオーセンティックとなるようだ。
 だが,ラテン語の読みは実際の日本では古典学者の権威では「動いていない」。philosophia はラテン語でも「フィロソフィア」と読むものであって,「ピロソピア」とは普通言わない。学名だって同じである。落とし所をプラグマティックに探していこうとする論考が以下の2つである。
 

学名表記のあり方に関する議論

 E。千葉菌類談話会,http://homepage2.nifty.com/chibakin/index.html,佐野悦三「学名の読み方について」http://homepage2.nifty.com/chibakin/gakumei.htm
 「古典ラテン語読み」・「慣用ラテン語読み」・「英語読み」の比較考察を行い,最大公約数的に通用しやすい読みとして「慣用読み」を提唱している。
 またここには天野誠「佐野悦三氏「学名の読み方について」に関するコメント」(同ペ−ジ)が付されており,国際的には確定されたものこそが必要であるとする観点から,こちらは「古典読み」が支持されている。
 どちらも学名を用いて音声コミュニケ−ションする現場を踏まえた意見であって,傾聴に値するものである。
 
 F。辻野匠,学名(ラテン語)のカナ表記についての試論 https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_11_15.pdf
 古典式ラテン語のカナ表記と区別して,日本でもっとも通用してきた表記を「現代的子音のカナ表記」と名付けている。すなわち,ph を[f],v を[v],y を母音としては[i],子音としては[j]とするものである。(さらに「ヘボン式カナ表示」他,英語読みの取り入れなどにも着目し,ここにはたとえばアンモナイト(Ammonite)など社会的に定着したものが入ってくる)。
 これらを踏まえて,次のような方向性が示されている。

学術情報を普及する立場としては古典式準拠のカナ表記(おそらくもっとも通用している「現代的子音の古典式カナ表記」)を第一候補として提示しつつ,「ヘボン式カナ表記」にも気を配りながら,括弧書きや註の形で既に知られた別の呼み方を提示していくのがよいのではないだろうか。

 一般的な啓蒙書ではこれがベストかもしれない。特に恐竜のように名前表記が錯綜しているジャンルでは有効性が高そうである。そのようなていねいな解説を読む子どもへの知的な刺激がどれほどのものか。
 

「yyzz2による学名ラテン語のカナ表記のガイドライン」再試案

 わたし(yyzz2)の立場も折衷的である。「古典読みがベストなのだろうが,慣用的な読み方の幾つかを棄てる必要はない」。
 
 いつも思うのが,19世紀のバトラ−(Arthur Butler)やウォ−カ−(Francis Walker)が蛾の命名時にどういう音声をイメ−ジしていたかである。全くの憶測であるが,純粋な古典的発音ではあるまい。「ae」をどうしていたかは見当がつかないが,彼らは言語学者ではない。教会ラテンの「エー」の可能性は高いと思う。「ph」を「f」と見なしていた可能性はおそらくさらに高い。「y」はどうなのだろう。ギリシア語のことを忘れて,彼らに親しかったかもしれない中世以後の教会ラテン語で考えるなら「i」である。
 たとえば学名表記におけるスペリングの揺れ,たとえば「αι」が「ai・ae」でなく「e」に,「υ」が「y」でなく「i」に,「ψ」が「ph」ではなく「f」や「p」にラテンナイズされているようなケ−スを時代と命名者にそって洗い出していけば,音のイメ−ジがどうなっていたかを推測できるだろう(ちなみにこの揺れは命名規約では同一綴りとみなされる)。しかし,これはわたしの手に余る。
 
 というわけで,とりあえずのわたし(yyzz2)のガイドラインを示す。

  1. 原則として古典的なラテン語の発音のカナ表記と見なされるものに従う。
    1. 二重母音 ae は「アイ・エ」でなく「アエ」,oe は「オイ・エ」ではなく「オエ」と表記する。
    2. 同じ子音の重なり,ll ・ rr ・ mm ・ nn ・ ss ・ tt は,促音「ッ」を用いず,同じ音を2回読むこととして表記する。
      • カナ書きを行っていない古典教科書的な本ではこの発音を示唆している。スペルを明確に反映する利点をここではとる。
    3. ただし, cc は[k]1音とする。(辻野E論文に従う)
      • 学名ではないが「ecce homo」は伝統的に「えっけ ほも」と読みたい。辻野E論文の示す「両音の併記」はこのような場合に説得力がある。
    4. ch は[k],rh は[r]とする。
    5. ph は「f」とする。(現代的・慣用的表記に従う)
    6. gn は[gn],ps は[ps]とする。
    7. sb は[sp],tb は[tp]とする。
    8. qu は[kw]とする。
  2. y は「 i 」とする。
    • 古典的には[u]または[ü]であるが,現代的・慣用的表記に従う。
  3. v は[w]とする。
    • 後世の実命名者のイメージでは[v]音の可能性が高いのかもしれない。しかし[w]音がウェルギリウス(Vergilius)に見られるように現代では普通に用いられていることから,古典的カナ表記を行う。
  4. j については母音としては[i]とする。子音としては[j](「ジャ」)ではなく,[y]ヤ行とする。
  5. ラテン語の固有名詞+接尾辞の造語については,固有名詞部分は可能な限りその母国語の発音に近いカナ表記を行う。
    1. ただし固有名詞がラテン語化されている場合はラテン語カナ表記とする。
    2. 「固有名詞+属格語尾 -i 」による種小名では,i を第2変化の属格語尾に由来すると見なして[i:]とする。(※yyzz2による)
      • 「iで終わる固有名詞+i」の ii は「イ」と縮約せず,「イイー」とする。(※yyzz2による)
  6. 母音の長音・短音については,辞典等で調べることのできた範囲でカナ表記を行う。
    • ギリシア文字η・ωをラテン表記する場合は,マカロンではなくサーカムフレックスを用いて,ê・ô とする。(※yyzz2による。HTMLの文字参照上の都合である)

 なお,5−2に関しては,平嶋義宏『新版蝶の学名』(1999)では,日本産の蝶にあっては「イ」,外国産の蝶にあっては「アイ」と表記している。プラグマティックなおもしろい案だと思う。しかし,語尾の発音が産地に左右されるのは体系的とはいえず,わたし(yyzz2)はとらない。
 
 あくまでも自HP用のカナ表記基準である。異論は幾らでも*1
 ローマ字読みの技術を持つ日本はラテン語の扱いにおいては他国に比して大きなアドバンテージを有していると思う。日本における学名の発音・カナ表示がどうあるべきかの共通理解を,ぜひとも生物学の専門の方々の合意によって形成していただきたい。
 *2
 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

*1:いざとなったら自分はトーシローだからと言って無責任に居直る準備は十二分にある。削除はいくらでもするさね。どうせさあ,縁と関心があって蛾をやっているのだけど,所詮ね,わたしは文学部出身で地方の高校の社会科教師だよ。こんなことにわたしが首をつっこんでいるのがおかしい。プロと戦う気は毛頭ありません。アカデミッシャンがんばれ。

*2:やっぱりアカデミズムの外で知識量が勝負になるような領域をもっぱらにするのはしんどいわけです。