『餓鬼事経』.
ああ,いい天気だなあ.でも仕事.資料を2本作らないと.そして同じく休日サービス出勤の上司と簡単な打ち合わせ.
でも熱帯魚に餌をやる方が先.
仕事がはかどらない.机上の本に目が行ってしまう.『餓鬼事経』の和訳本.もうほとんど宗教関係の本にしか頭が動かない.
死者たちの物語―『餓鬼事経』和訳と解説,藤本晃;国書刊行会,2007
「餓鬼」というのは輪廻の階梯の1ステージ.天−人−畜生−餓鬼−地獄.餓鬼から向こうは,日本人の感覚だと幽霊のような存在様式であるようだ.もっとも,ただ当人が飢え苦しむだけで人間に害を加えたりはしない.怨霊とは違う.
地獄に落ちる(転生する)ほどには悪くない者が餓鬼になるかというと,そう単純ではない.餓鬼としての寿命が尽きた後に引き続き地獄で焼かれるケースや,功罪相半ばなので昼は天界で楽を味わい夜は苦をなめるケースも書かれている.こちらの生でもそんな人はいそうだ.
連中にしてみればしんどいので,親族や徳の高い僧侶に救いを求めるわけだが,彼らは何せ餓鬼道の存在なので人間界の食物や衣服はカテゴリーミステークで享受できない.
というわけで「功徳廻向」が実施される.これは何かというと,善いことをすれば(功徳)自分に善いことがいつか返ってくるのが法則であるが,その善果を自分ではなく他者に振り替えよう(廻向)という作戦である.すなわち善行をして,その果報を対象とする餓鬼に指定するわけである.
もっとも効果的な善行は,徳の高い僧侶に飯を食わせて満足させることであって,これによって餓鬼はたちまちにその境遇を抜け出し天上の存在となれるようだ.善行の古代インド的制約といってよい.
同じ飯を食わせたり寄付するにしても,心ばえのよくない者どもに布施しても効果は乏しいらしい.誰彼なしに寄付しても駄目であるというのは面白い.「寄付するという動機が善いから,善いことである」のではなく,「(動機とは別に)客観的に善いことであるから,善いことである」という話である.まず何よりも,可能な限り賢くあらねばならない.
わたしは「もやい」のサポート会員であるがさてこれは善行になっているかどうか.
この『餓鬼事経』が,日本のお盆の儀式の仏教的根拠である『盂蘭盆経』の元ネタだという.
「お盆」は純仏教的には,先祖の中に餓鬼道に落ちて苦しんでいる者がいるかもしれないから「功徳廻向」をやろうというものだが,現場ではそう意識しているとはあまり見えない.実際の「お盆」は儒教・仏教・土着信仰のアマルガムだから仕方ない.
というわけで,そういう話をわたしは高校生相手にするわけだが,彼らはいかんせんまだ魂が育っていないので,あまり理解していないようだ.
彼らのほとんどはまだ,自分の心のほとんどが「自分ではない何か」であることに気づいていないのだろう.わたしの話が効いてくるのは10年後20年後になるだろうな.