トプセル(2)。『四足獣誌』のねらい。

 > トプセル(1)。エドワード・トプセル(Topsell),年譜。
 

https://biodiversitylibrary.org/page/44211994
 さて,それで,トプセルである。読んでいくのは『四足獣誌』の「献辞」。
 当時の本には序文代わりに王侯貴族や高位聖職者への献辞がつく。箔付けというだけではない。出版費。昔は,たいてい印刷屋は本が売れなかった時のリスクをとりたがらず,「権威+費用負担」を要求したという*1。並の僧侶だの医師だのにとって,著作を世に問いたければまずパトロンを探すべし,が定番である。
 同時代のモフェット『昆虫の劇場』の出版が遅れに遅れ,ついには死後出版になったのは,宗教的スキャンダルを恐れたのではなく,純粋に金銭の問題だった。
 『四足獣誌』は リチャード・ネールに献じられている。彼は英版ウィキペディアに項目が上がるほどの大物聖職者で,この頃はウェストミンスターの主席司教だった人物。
 こんな大物が反教会的出版のパトロンになる訳がないので,『四足獣誌』も,当然のようにキリスト教の文脈における著作である。ナチュラル・ヒストリーとキリスト教とは,自然神学と理神論に大きく踏み外さない限りにおいて,ごくごく相性がいい。自然科学から神学を切り捨てていった18世紀以降の科学者はやっぱり偉いのである。まだ17世紀初頭,最末期とはいえ,まだルネサンスである*2。想定される読者の頭の中も,中世以来のキリスト教に適合した自然に首まで浸かっていたに違いない。私の学生時代の研究テーマが「仏18世紀の自然観・無神論」であって,この界隈ははっきり言って好物である。
 科学史としては今更なのだけれども,トプセルの自然に向かう態度の一端を献辞から確認していく。馴染みのない向きには面白いかもしれないし,あるは辟易するかもしれない。
 「献辞」はありきたりの挨拶が1ページ続いて,本題に入る。

今,私が出版し世界へ公表する著作は,神聖なものであって,万人が知るべきものである。真実は,中傷やいかがわしい物議なしに受け入れられねばならない。さもなければ,何人もこういう著作を世間に出すべきではないだろう。神学者だろうが説教師だろうが,である。
(……)
第1に,獣についての知識は,他の被造物,つまり神の作品についての知識と同様,神聖なものである。疑うまでもなく,はじめの時,獣は創造され,人間へももたらされた。『創世記』第1章24−25節に読むことができるだろう。すべては主みずからによる。だから獣の生命,獣の創造はその造り手によって神聖である。

 トマスでも,現代のインテリジェントデザインでもそうなのだけれども,被造物である自然のすべては創造者の英知の顕現(そう考えると「表出説」はなんと合理的であることか!)である。「自然探求」から「神の英知の認識」へ至る道は,博物学の情熱の原動力の一つだといっていい。
 全体に高揚した文章で,わたしの力では訳出困難である。以下はyyzz2によるおおよその要旨。[  ]内はyyzz2による補足。

[要旨]
・獣の名付けは神聖である。アダム自身の神聖な英知によって,優美な命名のうちにその獣の本性を告げていた。バベルによって [その原初の名が] 失われたのは損失である。
ヘブライ語でもギリシアラテン語でも,被造物には3種類あるとされる。
(1) Fumentum [不詳。調べきれず]。雄牛,馬,驢馬など,「人間に仕えるもの」。
(2) Reptil [爬虫類,地を這うもの] 。「人間に薬となるもの」。
(3) Bestra すなわち vastando [荒らすもの] 。獣は野蛮で,他の仲間の数を減らす。人間が堕落によってそのはじめの像 [神の似姿であること?] と完全性を失った後,獣は人間にも逆らっている。

 要するに,獣は神によって「人間のために」創造されたものであって,その本性において人間に有益なものと位置づけられる。楽園のアダムは,その本性をとらえた的確な命名をしたのだが,楽園追放と例のバベルの塔の件によってその有益性は破壊され,名称も乱れたのだという。
 今でも自然は人間に優しくない。アダムが悪いそうだ。カトリックでは「堕落した自然」という概念を持ちだして,アダムの原罪によって自然そのものがゆがめられたとする(たとえば天文学において,コペルニクスが離心円を導入したり,ケプラーが楕円軌道を正当化するのに用いられたのが「自然の堕落」である)。トプセルではそうでなく,どうやら人間が一方的に悪いらしい。そう簡単に自然全体が堕落されても困るだろうし,そういえば某団体のパンフを眺めても,楽園で人間と獣とが仲良くしている挿絵が入っていたりする。
 さてアダムがダメダメ(それでも今の人間よりもずっと優れている)だったのはそうだとしても,それでも「害獣」が存在して人間に害を与えていることに,神の責任はないのかという「神義論」のトゲは依然として残る。トプセルはこんな例えを持ち出す。

[要旨]
巧みな職人の仕事場に無知な者が入り込んだとする。職人が作った奇妙な道具や,炉があったりする。無知な者はその巧みさ,有益さに気づかず,危険な物だとみなすだろう。

 神と人間の知性の差,ということでこれはありきたりな模範解答である。このあとが面白い。

[要旨]
職人の発明を誉め称えるべきなのだが,それでも我々は愚かなものであるから,神の創造物の中にまれには我々を脅かし害を与えるものもいる。獣には「有益なもの」もいれば,愛するべきではない「危険なもの」もあるし,馬鹿げた「無価値なもの」もいる。すべてのものが役に立つわけではない。世界という宮殿の中で,装飾品となるものもあるのだ。

だからこの著作はこうなる。

 従ってこの第1部で述べるのは,役に立つ神聖な被造物についての知識,それは初めの時に神から教えられたものであるが,それだけではなく,有害な動物についても述べたい。ソロモンは「思慮深い者は災難が来ると見れば(神の啓示による[←トプセルの書き足し])身を隠す」[箴言22章3節]と,また洗礼者ヨハネは「[神の]怒りを免れるとだれが教えたのか」[ルカ3章7節]と言っている。この著作でわたしがもっぱら苦労したのは,人間にとって,どの獣が友人であり,どれが敵であるか,どれを信頼すべきで,どれを避けるべきか,どれを食用となるのか,どれを有毒と見なすべきかである。

 これがこの著作の刊行意図。後世の人々は親の心なんとやらで,『四足獣誌』を怪物図鑑のように思っているらしいが,トプセルが生きていればさぞかし心外だろう。
 『四足獣誌』は,どう見ても面白がっている同時代のアルドロヴァンディのそれとは違って,ごくごく真面目な著作なのであるといってよさそうだ。アルドロヴァンディのキワモノ振りは機会があれば紹介したいのだけれども,虫じゃあないんでねえ。

*1:DeAngero, 2008, Thomas Muffet & The College of Physicians: A Battle for Power: 48 以下参照。

*2:イギリスでは1642年の清教徒革命が転換点。