トンボの一種.

 先週末にまとめて雪が降って,まだ溶けていない.地面はまだ雪.車道だけが車に削られて舗装をむき出しにしている.
 本州からのブログや虫の掲示板では,春の予感を告げる記事が現れ始めてきた.
 北海道の苫小牧はまだ冬でしかない.それでも日中の日差しは少しずつ力を増してきている.
 来週になれば,3月にはいれば,春を待ちきれずに飛び立つエダシャクを(昨年は会い損なったから)探しに,それから中旬には糖蜜のキリガの姿を求めて,わたしはまた,夜に歩き回る人間の生活リズムに切り替わっていくのだろう.
 薄暗がりの灯火下を追いかける,蛾のシーズンがもうすぐ始まる.


 あまり心は躍らない.虫を撮り始めた頃の,初見の虫を毎日のように発見する楽しみはもう薄れている.出会うことができるのは,結局はおびただしい,小さな死たちばかりだと気づいてしまっている.
 灯火や照明のトラップに捕捉されて,多くの蛾はその明るい光の領野から抜け出し得ない.あるものは白い壁や舗装された地面にひたすら凝固し,あるものは光源に幾度も衝突を繰り返して舗石に落下する.耳をすますなら小さな乾いた音が聞こえるはずだ.
 そして,人の靴や車両のタイヤが路上の彼らを踏みつぶしていく.夜に,薄明るい駐車場を歩くとき,蛾たちは面白いように死んでいる.
 朝の光は彼らを呪縛から解放する.生きているものは翅を広げて彼ら本来の棲み家に戻り,死んでいるものはその場に残る.起こるのはそれだけのことでしかない.
 雨が降ると(小雨模様程度なら蛾は普通に灯火へ飛来する),更に多くの死が見られるだろう.雨に体温を奪われた彼らは,朝になっても動かない.おそらく彼らは鳥たちの取り分なのだろう.雨上がりのまだ濡れた灯火下には,中型の,時には驚くほど大きな,蛾の翅が幾つも幾つもばらばらと散らばっている.


 蛾を撮りながら,とりわけ,地面の「落ち蛾」や大きな不器用な蛾を見つけたとき,そこには死が重なって見えてくる.
 ここはトラップだから当然なのだろう.
 どのみち虫の命は短く,誰にも顧みられることはない.ほんの少しそれが早まっただけのこと.まして,わたしが手を汚しているわけではない.


 どうしようもなく負い目がある.トラップと死を利用していることに変わりはないから.


 たった今,目の前で失われつつある,あるいは既に失われた生命に立ち会って,わたしはただ記録して語っている.それは誰かがやらねばならないということではないのだが,だが,誰かがやってもかまわないことのようにわたしには思われる.だからやっている.
 この喜びのない作業に耐えられなくなったなら,わたしは虫撮り自体をやめてしまうかもしれない.
 そういう作業が,もうすぐ,また始まる.


 ブログの画像は,アップローダーである「Flickr」をメインに使っている.そこでは画像を「Set」として分類することができて,死骸の画像は「Necroptera」(昆虫分類のもじり.「死翅目」とでも訳せようか)に入れている.何か目的があるとき以外は画像を見返したりはまずしないのだが,このセットだけはスライドショー機能を用いてしばしば,繰り返し見ている.
はてなFotolife」を使っていた期間が長いため,「Flickr」の画像数はさほど多くない.いつか,画像を移動させて一つにまとめることがあるかもしれない.
 どの画像も,単に死んでいる.喜びも悲しみもなく,ただ死んでいる.様々な姿をとって死んでいるのが分かる.わたしもこうやって死んでいくのだろうと考える.
 Memento mori.記憶せよ,死を.


 というわけで,昨日,職場で見つけたトンボの死骸.
トンボ
トンボ
トンボ


 撮影後,緑のゴムの木の根元へ.