お清め。

 休日に休めるなんて久しぶりのような。


 昨日,神社に電話。昭和37年なので厄払いではなく,お清めであると言われる。何か災厄があったのですか,とか言われる。
 もう何もかもダメです。


 神前に出るのだからクスリでラリっていてはいけないと思って,安定剤を飲まずに。案の定,運転が途中で怖くなる。連れに運転を代わってもらう。助手席で不安が一層高まる。事故を起こす確率はどちらが運転しても大差ないに違いないと思う。


 神社はやたらに大きい。


 七五三のピークと重なったらしい。マスコミが少子化云々と騒ぐのは,あれはウソであるようだ。訳の分からない子供がやたらにうようよしている。その一族郎党もあちこちに散在している。
 わたしは子供は嫌い。


 社務所で受付。次々順番を抜かされる。受付は早い者勝ちであるようだ。流水先を争わず。急いでいない。どうでもいい。


 娘の七五三と父親の厄払いとを一緒にやれば1回分の料金(?)で済むはずと主張しているご婦人。全然違う儀式なんだから無理に決まっている。あきらめた彼女は父の厄払いの方をやめてしまう。所詮他人でしかない。目先の5千円。


 やっと自分の受付。名前と住所と年齢。町名の漢字がどうしても分からなくなって,ぐちゃぐちゃになる。年齢については,正確には分かりません,と申告する。もともと知らないから平気。47才ぐらいのはず。


 待合いへ。子供や親や何だかやらが蝟集している。人々の顔を眺めていて,おそらくこの中で自分が最も神道一般に関する知識があるだろうと思う。こういう高慢さが自分自身をむしばんできたのだろうと思う。


 全然知らなかったのだが,ちょうど教育勅語の公布120年だという。解説のビデオを見せられて,神主さんの講話。国家権力に対する無邪気な信頼。まさか。


 耳障りの良い美しいことばは人を感激させても,だがそれ以上のものではない。無内容なことばに人は踊らされるが,だがそれは踊りでしかない。


 神主さんがわたしを呼びに来たとき,わたしの心はすでに(神道的な意味で)邪心でふくれあがっていた。


 本殿。なるほど「神道」が仏教と手を携えることでその形を作ってきたのがよく分かる。


 巫女が太鼓を鳴らす。祝詞は予習不足でことばを聞き取れない。


 巫女が舞を舞う。くるくる回る。わたしは頭の中で「宗教的儀式における舞踏」のデータベースをかき回している。データ不足。わたしは肉体に関わることへの関心が乏しい。


 とにかく今回は状況が悪すぎた。クスリを飲んでおけばもっと違ったことになっていたかもしれなかった。


 何か袋詰めになったものを渡される。いらない。フェティッシュは信じない。確認しないままそれは車のシートのポケットに突っ込み放しになっている。


 ダメだったような気がするが,それでも何かが変わってくるのかもしれない。より悪くなるのでなければおk。