番外。採集者 Dumont d'Urville について。
雨です。たまった仕事のプレッシャーに押しつぶされそうになりながら,安定剤を倍量飲んで昼寝をしたり,趣味の調べ事をしたりしている。
というわけで,Cocytia durvillii の採集者である,Dumont d'Urville の年譜を英仏のWikiやその他のネット資料で作成。
Jules Dumont d'Urville,(1790-1842)
- 1790 コンデ=シュール=ノワロー(Condé-sur-Noireau)に生まれる。生まれつきの蒲柳の質であったようである。
- 1796 父を失う。以後,伯父が父替わりになる。
- 1798 伯父からラテン語,ギリシャ語,修辞学,哲学を習う。
- 1804 カーン(Caen)のリセ・インペリアルで学ぶ。ブーガンヴィル,クック,アンソンの旅行記を読み,探検家を志す。
- 1807 ブレスト(Brest)の海軍アカデミーに入る。諸外国語,植物学,昆虫学を学ぶ。
- 1810 エコール・ポリテクニークの自然学試験に不合格(年を食いすぎていたらしい)。
- 1812 海軍少尉となる。
- 1814 マルセイユ市号で地中海の小航海を経験する。
- 1815 アデール=ペパンと結婚する。
- 1819 シェヴァレット号(船長:ゴーティエ=デュパルク)で黒海とエーゲ海諸島の水路調査を行う。その時,ミロス島でヴィーナス像を見いだし,コンスタンチノープルの大使に入手を勧める。その功績によって,レジオンドヌール騎士の勲章を授与される。
- 1821 海軍大尉に昇進する。
- 1822-1825 ルイ=イジドール=デュプレー中尉と組んで,コキーユ号による太平洋学術調査に出る。指揮官には年長のデュプレーがなる。船医のレソンと共に,フォークランド,チリ,ペルー,太平洋の島嶼部,ニュージーランド,ニューギニア,オーストラリアから多くの動植物標本を持ち帰る。痛風に悩まされ,体調不良のためデュプレーに出世で遅れを取り,決別する。
- 1826-1829 新たな太平洋調査の提案が海軍に受け入れらる。コキーユ号をアストロラーベ号(太平洋上で失踪した,ラペルーズ伯爵の探検船にちなんだもの)と改称して3年間の世界周航に出る。ポリネシアをマレーシア(現在の東インド諸島)・ミクロネシア・メラネシアの3つに区分する。佐官に昇進する。
- 1832-1835 フランス政府に5巻本の報告書を提出する。その中で,自己の実績に対する評価への不満が述べられる。
- 1837 海軍に太平洋調査を提案する。この案を受けて,国王ルイ=フィリップは南極探検を命じる。
- 1837 アリストラーベ号とゼレ号(船長ジャキノー Charles Hector Jacquinot)が南極に向けて出航する。
- 1840 1月,大陸のアデリーランド(妻の名にちなむ)のジェオロジー岬に上陸する。2月,オークランド諸島で磁気測定を行い,南極点の記念プレートを残す。11月,帰仏。12月,准提督に昇進。仏地理学会から金メダルを授与される。
- 1842 ベルサイユでの列車事故で死亡。
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- 1842-1846 『南極・オセアニア航海記』24巻本が出版される。
- 1956 フランスの南極基地がデュモン=デュルヴィル基地と名付けられる。
軽い気持ちで調べ始めたら,「ミロのヴィーナス」は出てくるし,南極探検はするし,アデリーペンギンに関係があったり,有名な事故に巻き込まれるしで,フランスでは英雄の一人であるらしい。ただの博物学屋の一人だと思って舐めていた。
さあ,我ながらいよいよ文系蛾屋だぞ。どうせ需要は全然ないだろうなあ。