ヨーン『自然を名づける』・馬渡峻輔『動物分類学の世界』

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

 分類学史を通じて,環世界センスの復権を訴えた著作。

 驚いたことに分岐学者は,進化的に正しく生物を分類すると,「魚」というグループは存在しなくなる,と宣言した。〔略〕「赤い点々のある動物」や「大きな哺乳類」といった分類群がないように,「魚類」という分類群は存在しないというのである。〔p.8〕

 すなわち,サメ・ハイギョ・その他の一般的な魚は分岐分類的には「側系統」であって,一つのグループにまとめることは不適切である。「一般的な魚」はサメとは別の枝,爬虫類や哺乳類などの四肢動物と同じ枝に乗っている。
 このような,人間の日常的な生物への感覚(=環世界センス。それが生物分類機能を持つことを,民族生物学脳科学の成果によって著者は傍証している)と科学的知見との乖離に,著者は危機感を抱いている。乖離は生物への一般人の無関心を招きかねない。

 わたしたちがいま置かれている状況は,環世界センスが商業主義に侵されている間に,外の生物界では六度目の大量絶滅のまっただ中である。〔略〕このような絶滅は自宅の裏庭で起こっているのだが,わたしたちの生きものに対する認知が行き届かなかったりすると,その損失に対処することはもちろん,感知することさえできなくなる。
 〔略〕環世界センスを捨てたことにより科学は勝利を収めた。しかし,わたしたち一般人にとっては話は全然違ってくる。わたしたち,そして忘れ去られた生物界が苦境に陥ったのは,環世界センスをないがしろにしたむくいである。一刻も早くもともともっていた自然観に立ち戻ることが先決である。〔pp.332-333〕

 思う。そうなんだろうか。
 科学が無罪であるとはいわない。科学のまなざしが常に権力や資本と手を携えていることは確かだと思う。だが,生物や環境への無関心の責を負うべきは分類学ではなかろう。そもそもたいていの人々は,分類の最近の動向など知っていない。何かおかしなことになっているのは,権力や資本の問題だと思う。
 だいたい,自分の直接的な生活と関係のない生き物に関心を抱けるような余裕のある人々がどのくらい存在しているのだろう。
 わたしなどは「プチブル気取りだから虫をやってられる」のでしかない。仕事に心と体をすり減らすことで生活できている人々にとっては「コークとペプシを区別できる」ことの方がきっと大切である。(そもそもこの本の価格3千2百円+税はおそらく普通の経済感覚では「高い本」のカテゴリーに入る)。「前衛」などはまっぴらだし,凡サルが100匹に達しても世の中は何も変わらない。
 この本は,ホエール・ウォッチングのエピソードで終わる。感動的なのだろうけどね。想像はできる。だが,それはわたしとは別世界の人間の物語である。
 夜,車で片道20分,道の駅での蛾探しだけでも,かなり仕事にさし障っているのだが。
 
 どう考えても,科学者がどう分類しようと魚は魚だと思う。科学は科学の知の中で一貫性を持ってやってくれればいいのであって,日常的な常識から乖離しても不都合なことは起こらないだろう。問題があるとすれば,担当者の無理解ゆえに研究機関に予算がつかないぐらいである(これは大問題なのだけど)。分類的には,わたしの環世界センスは「虫偏」のつくものはみんな虫である。
 上記『自然を名づける』は分類学の動向についての啓蒙的な読み物としては極めて分かりやすく,この後,馬渡峻輔『動物分類学の論理』・三中信宏『分類思考の世界』を再読するきっかけとなった。どちらもすでに何回か読み返している本なのだが,以前よりも少しは内容を理解できたと思う。

動物分類学の論理―多様性を認識する方法 (Natural History)

動物分類学の論理―多様性を認識する方法 (Natural History)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

 『動物分類学の論理』の提案する進化分類学の立場は次のようなものである。

 〔略〕分岐分析あるいはその他の系統解析法を行って判明した系統分類図において,多数の(あるいは少数だが重要な)固有派生形質をギャップとしてグルーピングするという考えである。固有派生形質をたくさん獲得したクレイドは,その次にその中のどれかの枝がたくさんの固有派生形質を進化させるまでひとつの分類群として認識する。〔p.124〕

 〔進化分類は論理的に破綻しているという指摘に対して〕進化分類学者の反論はこうである。「われわれは,系統関係の解明と体系分類をわけて考える」。この二者はまったく別物であるゆえ,同じ論理や方法を用いる必要はない。〔p.125〕

 方向としてはこうなる。

 〔略〕一般参照体系としてのリンネ体系には系図だけを盛り込み,進化の内容はまた別の体系を作ってその中に入れ込んだらどうだろう。すなわち,「系統」と「分類」をわけるのである。「自然分類はひとつ」と言明したことに背くことになるが,これは平たくいえば二重分類である。〔系図には分岐分類のパタンを用い,〕そして,一般参照体系の作成は分類学の最終目的を果たすための手段として位置づける。分類学の最終目的は進化を理解することである。〔p.126〕

 ここまで来るとわたしには正直よく分からない。とりわけ「進化を理解する」,あるいは引用には出てこなかったが「γ分類」というのもよく分からない。(分類とか系統とかについての科学者たちの論争の一端は,1996年日本植物学会ワークショップ「伊達騒動 「分類学・系統学・生態学」」およびその講演者原稿参照)。まあいいや。おいおい勉強していけばいい。どのみち「分類」だの「種」だのは,文系虫屋のわたしのアンテナにこれからも否応なしに感知されてくる事柄だろう。
 とはいえ,わたしにはα分類の言説が十分に面白いので感知してもスルーするかもしれない。シロートが足を踏み込むべき領域ではないような気がするし。