カシワマイマイ,他。
夜から雨,と天気予報が言う。朝に丸瀬布へハンドルを握る。ちょうどよい機会かもしれない。カシワマイマイの大発生に結着をつけよう。
死骸を探すのは日中の方がたやすい。いくらでも死んでいる。
中央下はクスサンの翅。
ここに残っているのは抜け殻でしかない。命は軽い。どうしようもなく軽い。
麦の粒のように,地に卵が落ちている。
職場では「命の大切さを子どもたちに教えなければならない」らしい。
こうやって無数の失われた命が目の前にあるとき,命が大切な,重みのあるものとはどうしても思われない。
生まれてきて,ただ簡単に死んでいく。起こっていることは同じ。意味づけや物語をはぎ取ってしまうなら,人間の死も虫けらの死も同じ。
もちろん,死とは当の個体には(すでに死んでいるのだから)経験不可能なものであって,他者によって意味づけされなければ死は存在しない。従って,意味づけの過程で命に大切さや重さが付加されるのは当然であるという理屈をこねることはできるだろう。
彼らの死は,わたしがカメラを向けることによって,ブログに貼り付けることによって現前する。それはそうなのだろう。わたしのカメラ以外は彼らの死骸に関心を向けないのだから。わたしが彼らを見ることで,彼らのわたしによって意味づけされた死が現れてくる。
わたしに見えてくるのは,大切さでも尊さでもない。目の前で,単純で簡単な,普通のことが起こっているということである。死は日常的な,当たり前のこと。風が吹いたり,季節が変わったりするようなもの。
人間の死も,このわずかなスペースでのおびただしい蛾の死と同じ。わたしも,わたしにとって大切も人も,わたしの知らない人も,早晩この蛾たちのようになる。
小池龍之介,『超訳 ブッダの言葉』;,p.186。*1
君よ,ヒトやネコや魚やニワトリやカマキリやコオロギなどの生き物の死体を見つけたときは,死の瞑想をするきっかけとすること。
野ざらしにされて,死後少しずつ腐敗の進む死体。
膿(たいえき)のデロデロ流れ出てくる死体。
バラバラになって白骨のみ残った死体。
それらを見かけたなら,「コワイ」「イヤダ」「カナシイ」と条件反射を起こすかわりに君自身の身体(からだ)を,その死体になぞらえ念じること。
「この私の身体もこの死体と同じ物質でできている。やがて死んだら同じになる。私も死ぬ」と。
こうして死の瞑想を行って,生存本能の呪縛を解くように。
仏教においては,生まれることも死ぬことも業にまといつかれた呪いのようなものでしかない。
この,生殖の罠にとりつかれたカシワマイマイたちは輪廻を繰り返すだろう(そしてわたしも)。彼らの来世がこれまでの生よりも,ほんの少しだけでも安らかなものであるように。
ヨツボシホソバ。
チョウ。
※そういえば「命の大切さ」ばかりではなく,「生きる力」も教育しなければならないことになっている。「生きる」ことの本質は「他のものを食い殺すことによる自己保存」だと思っているわたしは,耳にするたび悪心(おしん)を覚える。恥知らずだと思う*2。
それにしても,わたしのいる業界はあまりにも人間中心主義的である。そういうことを考える余裕のあるだけ,まだ幸運な部類の仕事なのだろうけど。
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