生存報告

 まとまった時間を作れない。「蛾」はもう少し待って。
 

田上太秀『仏教の真実』。梵行について。

 こういう根本仏教の啓蒙書が近年多く出てきている。「オ−ム真理教」や「批判仏教」や「テーラワーダ協会」に揺さぶられて,人々が仏教について本気で関心を持ち始めているのだと思う。
 個人的には,この著者は「無明」を「法に関する根源的な無知」で解釈している点に着目。それ以外は特別新しい内容はない。

仏教の真実 (講談社現代新書)

仏教の真実 (講談社現代新書)

(欲は決して悪い意味のことばではなく,ものに執着,あるいは妄執した結果,悪い欲として理解されている)
(苦しみを受けるのは,生まれたからである。生まれてこないためには,生類が生への妄執を起こさないことである。生への妄執は性欲があるから起こる)
 では性欲は悪い欲なのだろうか。
 性欲そのものは子孫を残すための欲であるから,善でも悪でもない。動物が子孫を残すのは性欲があるからで,その性欲が悪であるわけがない。ところが人の性欲を悪と見るのは,人が性欲に快楽を求めるからではないか。(……)性欲は人が快楽の糧にしているかぎり,悪と見られても致し方ない。(pp.140-141)(下線部引用者)

 よく分からない。わたしの理解では,「根本仏教とはブッダになることを目指すもの」である。そこでは妄執(煩悩)は克服されている。
 修行者でも食欲・睡眠欲・ブッダを目指したい欲望は存在しているが,それはそれなしでは「ブッダとなる目標」を達成できないからであって,最終的には投げ捨てられてしまう道具でしかない。
 性欲は話が違う。はじめから不要である。釈尊が弟子たちに「生涯にわたる梵行(性行為をしないこと)」を規定したのは使い道のない欲望を否定したからだろう。
 
 根本仏教が「子孫を残すこと」を肯定しているとはわたしには思えない。もちろん在家はまだブッダとなる機根が熟していないのだから「梵行」を厳密に課しても仕方ない。子孫はできてしまうだろう。在家の生としては正当で善きものなのだと思う。
 
 要するに,「善」の用法に2つあるのであって,「ブッダを目指す者にとっての善」と「世俗道徳における善」とは区別されねばならない。もちろん,根本仏教的には前者こそがより優れた「善」である。
 (出家者向けではない)新書としては,性欲を否定する必要はありませんよ,でも乱倫を慎んでください,という相場なのかもしれない。
 だが,やはり「動物が子孫を残すのは性欲があるからで,その性欲が悪であるわけがない」では困ると思われる。人間と動物とは違う。人間だからこそ,仏教的に善い方向へ欲望をコントロールできる。
 動物は性欲に動かされるからブッダになれないのかもしれない(しばしば動物の性行為は非常に暴力的にわたしには見える)。
 
 全体に著者の論調には,大げさに表現すれば「生命賛美」がちらつく。本当にあらゆる苦が滅尽するなら,極端には生命のない世界が現前するだろうし,それが理想のはずである。現に生まれてきてしまった衆生は,世俗に反して,幾劫もかけて輪廻からの脱却を目指せばいい。それが仏教的な生を選択するということだと思う。
 反社会的? 反社会的なモメントを持たない宗教はゴミでしかない。
 
 妻とこんなやり取りを何度もしたことがある。妻「そんな考えは人間的じゃない」,わたし「人間的でなければならない理由なんてない」。彼女は,いつまでも宗教とか思想とかが分からない人間であるらしい。
 

夢と希望を与えよう。

 TVをたまたま見ていると,しばしば小学生が出てくる。このときは「将来はプロ野球選手になってみんなに夢と希望を与えたい」と言っていた。
 「彼が野球選手になること」と「人々が夢と希望を持つこと」との関係が全然分からない。関係ないよね。定型文だろうな。定型文を反省なしに自然に使うようになると頭が悪くなるよ。まだ子どもなのに可哀想である。
 「将来は(昆虫の)分類学者になって夢と希望を与えたい(「日本に元気を与えたい」でも可。これも意味不明な言葉である)」などと発言する子どもが出てきてもいいようなものだが,人々は首肯しないだろう。
 でもやっていることは前者と同じである。
 

さて懐メロの時間です。

 日頃,田舎の高校生を相手に仕事しているのだが,(よっぽどコアな奴を除いて)全然知らない曲ばかりなのだろうと思う。その程度の知識水準の連中に思想や歴史を教えることはむなしい。選挙権もまだムリに違いないと思う。そういうことになればそういう教育をするわけだが。
 「ハートブレイク太陽族」。(属ではない)。

 この動画のMMDでのモーションコピーが下。
 なるほどねえ。