手元の資料で調べよう。フレデリック・ムーア(その5)。

(その1)(その2)(その3)(その4)
 
 遅々としてムーアである。どうなってしまうのだろう。
 さてムーアの代表的著作は,

  1. 『A catalogue of the lepidopterous insects in the museum of the Hon. East-India company(東インド会社殿の博物館の鱗翅昆虫目録)』2巻本,1857〜1859,(ホースフィールドと共著)
  2. 『The Lepidoptera of Ceylon(セイロンの鱗翅目)』3巻本,1880〜1887
  3. 『Lepidoptera indica(インドの鱗翅目)』10巻本,1890〜1917,(ムーアは6巻までで死去。残り4巻はスウィンホーによる)

 である。
 
 1つ目についてはもう触れた。
 今回からは2つ目の『セイロンの鱗翅目』。BHLでは,http://www.biodiversitylibrary.org/bibliography/8801#/summary である。東インド会社の博物館で働いていたムーアは,この著作によって南アジアの鱗翅目研究の第一人者としての名声を確立する。
 
 「序文」から見ていこう。これが難物である。わたしの英語力はささやかなものであるが,この文章の不透明さはわたしばかりの責任ではない。あえて訳出する。註は英語のWikiからばかりである。

1844年の初め,当時セイロン知事だったウィリアム・H・グレゴリー卿*1は,ペラデニア植物園*2長のスウェイツ博士*3によって,現地人の画工,W・デ・アルウィス氏の描く植物の正確さと美しさに注意を向け,スウェイツ博士の提案のもと,許可が下り,画工がこの島の鱗翅目の昆虫を自然のまま写しとることに従事できるようにされた。鱗翅目の昆虫にスウェイツ博士は大変に関心を持っていたのである。彼の監督の下,これらの絵は主に彼が集めた標本をもとに描かれた。

http://www.biodiversitylibrary.org/item/110504#page/7/mode/1up

 「彼の(his)」が誰なのか読み取るのも一苦労である。しかもこの話はおかしい。
 ◎グレゴリー卿がセイロン知事になったのは1872年からであって,1844年当時は出身地ダブリンの議員だった。さらにスウェイツがセイロンで植物園長になったのは1849年である。普通に考えれば時期が合わない。2人ともイギリスにいたはず。
 ◎画工のアルウィスはおそらくスウェイツの下で働いていたのあろうが(だから植物画を書いたりしている),なぜ虫を描くのにグレゴリー卿の「許可(permission)」が必要なのか。あるいは画工はグレゴリーの配下だったのか?
 もう少し訳を続ける。

W・デ・アルウィス氏の弟であるGEO・デ・アルウィス氏もまた豊かな才能を示していたので,ウィリアム・グレゴリー卿は彼を自費で雇ってすでに描かれている絵を模写させ,新しい絵を準備した。これらの複製画が,ウィリアム・グレゴリー卿の意向で標本と一緒に貸し出されて,この本[『セイロンの鱗翅目』]の図版に使われているのである。

 つまり,ムーアの所に送られたのは自腹を切った「コピー」であるようだ。持って回った話である。ということは,グレゴリー(あるいはスウェイツ。そもそも絵の所有権が誰にあるすらここでは不明である)は,原画は手元に残しておいたということである。
 
 何がどうなのかよく分からない。
 当時の人々に周知の事情が省かれているか,差し障りの出てくることをあえて伏せているかどちらかである。後世の善意の読者であるわたしは頭を抱えるばかりである。
 
  考えても分からないことはネットサーフィンで。
 Rohan Pethiyagoda, The Family de Alwis Senevirante of Sri Lanka: pioners in biological illustration(スリランカのデ・アルウィス・セネヴィランテ一族,生物画の先駆者),Journal of South Asian Natural History, 1999,Vol.4, No.2, pp.99-109 なる雑誌論文(PDF)が見つかった。
 ムーアのように当事者ではないので,こちらはずっと明晰に書かれている。
 やっと話が見えてきた。

 スウェイツは植物学者であるばかりではなく,博物学への変わらぬ愛情を持っていた。彼は昆虫からほ乳類にいたるまであらゆる種類の動物の標本を収集し,丁寧に保存し,アルベール・ギュンターのような動物学者にそれらを記載し命名してもらえるよう大英博物館へ送っていた。スウェイツの熱狂振りは,1874年,知事のウィリアム・グレゴリーを,ウィリアム・デ・アルウィスの特別なプロジェクトへ彼(グレゴリー)の私財から資金援助するように説得するほどだった。ウィリアムはただ「セイロンの蝶を描く」ように命じられただけだった。

 ◎ムーアの序文劈頭の「1844年」は「1874年」の誤記である。これなら両者がセイロンにそろう。「現地人」も理解できる。
 ◎「許可(permission)が得られた」とは「金を引き出した」ということである。スウェイツは「特別なプロジェクト」という触れ込みでグレゴリーに計画を持ちかけ,実際は鱗翅ばかりを描かせたのだろう。
 
 『The Family de Alwis Senevirante』をもう少し続ける。

(……)
 鱗翅目の絵があまりにすばらしかったので,スウェイツはそれらを船でロンドンに送るのを嫌がった。グレゴリーは保険をかけるため,ハルマニス[ウィリアム・デ・アルウィスの父。彼も優秀な画工だった]のもう一人の息子であるジョージに完全で正確なコピーを作ることを命じた。これらがロンドンの,イギリスの昆虫学者フレデリック・ムーアへと送られ,ムーアの『セイロンの鱗翅目』3巻本の基礎となった。幸運なのか不運なのか,ウィリアムの貴重な原本はスリランカに残り,失われてしまった。
 ジョージの複製一式は大英博物館の昆虫学ライブラリーに生き残っている。(……)

 ◎グレゴリーが「自費で」複写を作らせた理由がこれで分かった。「序文」に書きにくい内容では確かにある。グレゴリーとスウェイツに何らかの衝突があった可能性すら思わせる。
 
 ここまでが序文の1/5ぐらい。上品とはいえないネタがまだ続く。
 
(この項続く)

*1:William Henry Gregory: 政治家,1872−1877までセイロン知事。http://en.wikipedia.org/wiki/William_Henry_Gregory

*2:Royal Botanical Garden, Peradeniya。セイロンに作られた植物園。http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Botanical_Gardens,_Peradeniya

*3:George Henry Kendrick Thwaites:1849-1879までペラデニア王立植物園管理人,植物学者・昆虫学者。http://en.wikipedia.org/wiki/George_Henry_Kendrick_Thwaites