手元の資料で調べよう。フレデリック・ムーア。(その6)
(その1)・(その2)・(その3)・(その4)・(その5)
ムーア『The Lepidoptera of Ceylon(セイロンの鱗翅目)』の紹介ということで,「序文」をたらたらと読んでいる途中。
前回は図版の由来の話。今回は出版にいたるまで。
画像は次回になるので今回も字ばかりになってしまう。
無関係にようつべをはさんでおこう。相曽春日である。ムーアとは何の関係もない。
あー,続き。
このセイロンの鱗翅目の絵図のセットは約350種。そのうち250種は幼虫・蛹・成虫といった様々な段階のものが描かれている。これらはウィリアム・グレゴリー卿の標本コレクションと共に,整理と命名のために著者の手元に置かれた。
http://www.biodiversitylibrary.org/item/110504#page/7/mode/1up
図版の紹介は次回。(わたしは)楽しみである。
この絵図のコレクションはその後,1878年5月6日のロンドン昆虫学会の会合で公開された。これは東洋の昆虫学への価値ある貢献と見なされ,会長によって次のような提案がなされ,決議された。すなわち,「これらを出版できるよう,セイロン政府へ申し入れることが望ましい」と。
当時の会長は,例の擬態で有名なベイツである。
これだけ読むと周囲の推挙によって出版が決まったかのようであるが,どうもそうでもないらしい。
「Transactions of the Entomological Society of London(ロンドン昆虫学会会報),1878,p.viii にはこれだけしか書かれていない。
F・ムーア氏が,元セイロン知事W・H・グレゴリー卿の求めによって,その島の鱗翅目の変態を現地の画家が美しく描いた大部のセットを公開した。これらの画図はスウェイツ博士の監督の下で作成され,これまで知られていない多くの種の生活史が示されている。ムーア氏はセイロン政府が出版の提案を受け入れてくれるよう希望を述べていた。
http://www.biodiversitylibrary.org/item/45285#page/374/mode/1up
おそらく,グレゴリー卿の強い意向(名誉心?)によって絵図は出版を前提に公開させられ,ムーアはそれに沿って動いたのだろう。セイロン政府にはグレゴリーが根回しすれば良いのである。もちろん推測である。
もう訳出は十分だろう。
出版にあたって,グレゴリーの絵図と標本ばかりではなく,さらに新しい情報を取り入れることでセイロンの鱗翅ファウナの決定版を作るべく,セイロン政府の無償での協力が必要であるとされた。グレゴリーの承認のもとでムーアは植民地相へ申請を行い,ホッカー卿*1の諮問をパスして,時のセイロン知事へ回送された。セイロンの立法議会でこの案件は満場一致で可決されたという。
というわけで,この『セイロンの鱗翅目』は英国本国と英領セイロンお墨付きの公的な出版物となった。グレゴリーは大いに満足したことであろうが,もちろん推測である。
フルストルファーによる「死亡記事」(既出)は次のようにまとめている。
1880年,ムーアは英国政府の支援を受けて彼の2つ目の主著『セイロンの鱗翅目』を公刊した。この本はすべての主要図書館に置かれ、それによって著者は知らぬ者がいないほどになった。その時から、アジアのほとんど全体とりわけ昆虫に恵まれたインド亜大陸から,多種多様な資料がムーアのもとへ流れ込むようになった。このことで彼は, Euploeen属とMycales属の大部なモノグラフをまず完成させ,1890年には『Lepidoptera Indica(インドの鱗翅目)』の編纂を始めることが可能となったのである。
http://www.biodiversitylibrary.org/item/148361#page/163/mode/1up