モンキチョウの死骸.

 真神ゆさんの「Faunas & Floras」の8月29日記事から.

けっこう翅がスレてますが、私はボロであろうとなかろうと気にせず撮ります。
鱗粉が剥げていたり翅が欠損しているのは彼らが必死に生きてきた証拠であり、そのひとつひとつからドラマを感じることができるような写真を撮りたいと思ってますです。


そういった意味では、私の写真は昆虫写真ではないのかもしれませんね。σ(^_^;)

 何故撮るのか,何を撮るのか.あらゆる表現はそれを語るとき,そこには自己の生が賭けられる.


 わたしはボロボロになった虫をほとんど撮らない.いたずらに同定を困難にすることが最大の理由である.
 でも死骸は撮る.

 10月1日,アルテン温泉駐車場.モンキチョウの死骸.


 死は,ある生の形式から異なる形式への移行のきっかけにすぎない.生きる過程で撒いた種は,その未来に必ず刈り取られる.
 だが,あるいは決して満たされることのなかった思惟や願望が,生の流れのそこかしこに澱のように沈殿し,固く結晶し,そのまま風化していくことがあってもいいかもしれない.
 昆虫たちの死骸がそのような,取り残されたもの,どうしようもなく断ち切られた思いの結晶したもののように,わたしには見えることがある.
 その見ることのない眼の,押しつぶされた体の,その語ることばにわたしは耳を傾けることができるだろうか.
 とりあえず撮ってみる.それならばできるかもしれない.


 生きることは,他の生命を押し退けることであり,他の生命を食い殺していくことであり,その生の刹那をただ生かしていくことでしかない.
 「はじめに行いありき」と書き換えたファウストにわたしは与しない.
 はじめにはことばがあった.終わってしまった瞬間に,ことばは始まる.生きることも行いも,わたしにはどうでもいい.ことばだけなら,終わりは始まりにできるはずだ.


 「とりあえず」? とりあえず,わたしは遅れていこう.語られなかったことばや,語られなかった思いや,永久に取り残された蛾の死体のように,わたしは生きる場所から遅れるだろう.


 わたしの撮る虫はすべて死んでいるのかもしれない.一体,死んでいない虫たちなどいるのだろうか?


 というわけで,わたしのそれも全く昆虫写真ではありません.