『代替医療のトリック』、および「週刊東洋経済 2010.3.20 」書評

シン&エルンスト『代替医療のトリック』(新潮社、2010)


 サイエンスライターと、代替医療に関わってきた学者との共著。
 主張は明確で、鍼・ホメオパシー・カイロプラティックなどの代替医療には「期待されている効果」が認められない、というもの。本書の最大の美質は、代替医療を「メカニズムが科学的に理解できないから」否定するのではなく、「実際の効果に関する臨床試験に基づく」分析から、それらがプラセボ以上のものではないことを導き出している点である。(日本ではほとんど一般には話題にならないが、外国では代替医療への科学的研究の成果がかなり積み上げられつつあるようだ)


 著者は「科学的には理解されていなかったが効果が臨床試験に耐えたもの」として「壊血病に対するレモンの摂取」を、「広く受け入れられていたにもかかわらず統計的には効果があるとは見なされ得ず否定されたもの」として「瀉血」をあげて対比する。


 科学的知識は常に未知と向き合っている。ベーコンやデカルトが執拗に「方法」にこだわったのはそれ故である。松明も杖もなしに暗闇に乗り出していくことは愚行でしかない*1。「理性にかなった手続きによる」検証のカンテラなしに人間の思索がどこまで行ってしまうかは、科学史の裏街道を少し調べれば分かることである。
 代替医療もまた暗闇を歩いているように思われる。


 周到に書かれた本なのではあるが、それでもこういう書評が現れたりする。

しかし「科学的」統計だけで説明つかない側面が病には多々あるのではないか。東洋医学や食事療法、気、笑いの効用など奥が深い医の世界を「トリック」で終わらせてはいかにももったいない。
週刊東洋経済 2010.3.20 」p.149)

 著者がわざわざ2つの章を裂いて、「科学的方法が医療にいかに有効だったか」「プラセボ効果に頼った医療に戻ってはならない」と論じているのにこれである。
 「科学」としての西洋医学のスタートにあった物心二元論が揺らいでいるのはそうかもしれない。かといって、「(科学で扱うことになじまない)側面」にコストを費やし生命をゆだねるべきとも考えられない。
 「東洋経済」というメディアの性質からくるバイアスがかかっているとでも?


 医療の問題は「多々あるのではないか」などいう軽い言葉で述べられるべきものではないし、そもそもわたしは「奥が深い」なんて表現は思考停止のインチキの表出だと思っている*2。それは深淵を自らのぞき込むことを回避したいだけの知的怠慢でしかない。


 一体、どこまで見えて、どこから見えないんだい。


 ヘラクレイトスが「わたしではなくロゴスに聴け」と言った時、思い込みに踊らされる人々の非理性的な姿がその脳裏にあっただろう。
 自らの理性を自らの足下を照らす光とせずに、人間は一体何を導きの糸としようというのか。


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*1:わたしがそういう無謀な探求者にどうしようもないシンパシーを覚えるのは別問題である。

*2:生徒にわたしの倫理の授業の感想を書かせた時の「奥が深い」は100%「面倒なので深く考えたくありません」と等値である。