キバネセセリ.

 2日続きの雨.会社の廊下で1頭の蝶の死体を拾い上げた.
 レンズのケースに入れて持ち帰る.



 逆さまなのではなく,翅を逆に反らせて死んでいる.キバネセセリの♀.


 虫撮りを始めて,虫たちが実によく,なにげなく普通に死んでいることに気付いた.彼らの命は本当に軽い.生命の大切さ,なんて教育者が口にする時,それはデタラメである.
 本当は死は簡単な,身近なものであるのだろう.虫たちがあれほどまでどうしようもなく簡単に死んでいくのだから.
 街灯の周りを傷つきながらくるくると回って飛ぶ蛾たちも,花をはしっこく行き来する蝶たちも,地面や葉の上を徘徊する甲虫たちも,みんな死の影を背負って見える.
 原始仏教において,生は解消されるべき迷いの姿(アーラヤ)である.虫けらも人間も同じこと.「考える葦」である人間だけが克服への機縁を持つ.虫は…? ただ生まれて死んでいくしかできない.これは恐ろしいことだ.虫は恐ろしい.その底なしの迷いと苦しみが恐ろしい.
 はかない光や陰.虫は光や陰から生まれてくる,光や陰そのものだ(人間だって本当は同じなのだが).もう少し,光や陰を追いかけてみよう.そうでもしないと,わたしは決定的に間違えてしまうかも知れない.
 父親の死体を前にした時より,死んだ虫の方に心が動く自分がいる.おそらくそれは正しい.入り口は色々あるはず.



 死んだ生き物の顔のアップ.標本を作る人には珍しくないだろうが,わたしにはあまり機会がない.
 まだ転生の期日とされる49日は過ぎていないに違いない.雨が上がったら,この,ケースの中に戻された死体を庭に解放してやろう.