『文藝春秋 2008年7月号』

 もう一つのブログは結局面倒で休業状態。こっちで書くことにする。あまり更新できないと思う。


 私にとっては久しぶりの吉本隆明
 学生だった頃に著作集を古本屋で買い集めて主だった評論時評は大抵読んだが、今振り返ってわたしの精神にそれらがどのくらい影響を与えているかというと、あまりない。
 「マスコミよりもディスコミがいい」という言葉だけが妙に記憶が残っていて、これは私の思考に時々影を落とす。

吉本隆明 <「蟹工船」と新貧困社会>

 脈絡を追うのが難しい文なのだが、要するに「昨今の『蟹工船』ブームそれ自体についてはあまり関心がない」ことがよく伝わってくる文章。


 断片的なことだけ抜いておく。

もう一つ、今の世界を考えるには、資本主義の「アフリカ的段階」を勘定に入れないとならない。
(……)アフリカのある部分はとても西欧的になっていますし、ある部分ではまだ野蛮な時代が残っていて、それらが混合している。アフリカの貧困といえば、今の日本どころじゃありません。しかし、アフリカは文明の未発達な、そこから脱すべき一段階ではなく、むしろ現在のアフリカの中に人間のモラルや宗教や生活の原型が揃っているのではないか、というのが僕の考え方です。(p.186)

 現在を撃つためには、未来はまだ実体化していておらず使えないから、過去や未開を持ち出すことは通例だし有効なのだとは思う。アフリカ。「勝手に理想化された縄文時代に何かヒントを求める」よりはまし、なのかどうかはちょっと分からない。
 それぞれの固有の文化があるだけで、「原型」があるのではないとわたしは予想するのだが。何かを探すなら、それは今の自分たちの中から探すしかないと思う。たとえ小さな動きだとしてもそれは必ずあるはずだ。人間が「座して死を待つ」はずがない。


 詩について。

(……)先日、二十代、三十代の詩人の詩集をまとめて二十冊ぐらい読んでみたんですが、いい詩だといえるほどのものはありませんでした。日本の近代詩、現代詩の歴史の中においてみると、とても詩とは言えないじゃないか、なんでこんなものを書いているんだろうというのが実感です。(p.187)

 絵画とは歴史の中の営為であって、例えば狂人の絵がどんなに素晴らしくてもそれは違うのだということを教えてくれたのは坂崎乙郎の著作である。
 詩だって同じだと思う。都築響一夜露死苦現代詩』に取り上げられているような狂人や相田某の言葉が輝いてしまうのは、本流の詩がそれだけやるべきことをやっていないのである。