出張3日目.1月8日.帰苫.

 研修2日目.最終日.
 日本の応用倫理学のボスであるヘーゲリアン加藤尚武氏の講演.

 現状において環境問題への取り組みは急がれねばならない.「危険は予測できるが,何も対策をしなかった」ではまずい.
 現在の経済思想や政治的プロセスは環境倫理の観点を有していない.例えば高校のこれまでの社会科の内容と,環境倫理とは対決せねばならないだろう.
 例:世界史の教科書での「産業革命」の扱いは,経済発展と資本の視点からのものであり,木材資源の枯渇によって引き起こされた(1)石炭への切り替えと(2)保水力(水車動力)の不足を埋め合わせる蒸気機関の開発,といった指摘が不十分である.
 このように資源・環境の視点からの歴史理解が必要なところに来ている.
 しばしば教育現場に推奨される「自然に親しむ」はそれほど有効な環境教育ではない.

 強力にやれば,それ自体がイデオロギー注入教育になるのだろうけど,それでもいいのかもしれない.残り時間があまりないということだから.

(質疑)
 Q:生物の多様性の保護についてどう理解すべきか?
 A:「環境プラグマティズム(人間にとって有益な種は保護すべきである)」と「人間非中心主義(人間云々とは関係なく種は保護されねばならない)」との議論は決着が付かない.「すべての種は将来人間に有益なものとなる可能性がある」とすれば,結果として両者の対立は解消される.

(その他)
 政策決定における多数決の問題.
 代理母など生命倫理の問題のほとんどは「少数意見をどうするか」である(生命倫理は保守的な学問なので…).多数決が有効なケースではない.
 裁判員制度もそうであって,多数決になじむ問題とは思われない.
 「単純な多数決の民主主義」を修正していく必要がある.

 ルソーの社会契約説の「全体意志と一般意志」などを連想.自由主義が「利害の総和」を肯定する思想を持っている以上は(環境問題の解決は)難しそうだ.わたしはアカっぽいので利益追求のための自由の制限は平気である.


 午後からの「環境教育の実践報告」がいずれも「自然と親しむ」ものであったのは,そんなものなのだろう.公教育の「公」の部分には「環境倫理」の観点はない.
 最近つくづく分かってきたが,教員は自ら信じるところを教えることはもちろんできない.文科省の政策に沿って教えることが何よりも要求されている.当然なんだろうけど,つまらないなあ.嘘を教えるのは嫌なんだけどなあ.連中はこちらが信じていないことを喋っているのを見抜くだろうな.やる気がおこらない.


 都市間バスは30分遅れ.苫小牧の市街に入る頃にはすっかり暗くなる.四角いマンションが見える.まだ新しい.幾つもの窓に明かりが灯る.
 こんな所に住んでいる人々には幸せはないだろうな,と思う.
 間違えた.思い直す.こんな所に住めてしまう「人間というもの」に,幸せは絶対に値しないのだ.