「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」に似て。から。

 id:yukioinoさんの「雪泥狼爪」7月18日記事から。
 コメントに書き込もうと思ったけれど,思い直して自分のところへ。


ストアの一派においては,最高善(=幸福)とは「赦し得ないことを赦すこと」であるとか。
本当の幸福と,底知れない悲しみとは実は一つのもので,それは(日本的な用法での)自然な人情を越えたところに生まれてくるのかもしれませんね。


 臓器移植もそう。どうして,人々は運命(どうしようもない不条理)をただ単に受け入れることに耐えられなくなってしまったのだろう。
 人情としては十二分にわかる。だがあえて書く。殺害者をどこまでも赦そうとしない遺族の人たちや,自らの子供の病死を受け入れることのできない両親たちは,自らの不遇な境遇に耐えきれずに無差別殺人を犯してしまう人々と,通底しているのだと思う。それは時代の空気なのかもしれない。すべてが満たされて当然であるという錯覚の支配する空気。
 そんなものは人々を消費に駆り立てるための資本の欺瞞にすぎない。自分を含めたすべての人々が結局は様々にどうしようもなく不幸であること。そこから出発するしかないように思う。
 持続する幸福というものがあるとすれば,それは喜びも悲しみも人情とは別の何かに変容してしまった,その果てにある「一つの作られた態度・様式」のようなものなのかもしれない。