Moffet『昆虫劇場 Insectorum theatrum』の「Anthrenus」について(1/2)
twitterでのわたしのつぶやきは「調べ事の進捗・更新の報告」か「身心の具合が悪い」かどちらかなので,およそ読まれるに値しない。とはいえ,その2つがわたしの生活の実質のすべてなので仕方ない。
先日何の気なしに画像を貼った。17世紀の虫本の,なんだか分からない変な不愉快な感じの木版画。
http://www.biodiversitylibrary.org/item/123182#page/277/mode/1up
画像に返信が来た。2つも来た。わたしのtweetを見ている(特殊な)人がいるんだなあ。
2人とも「フユシャク」だろうと言う。なるほどフユシャクっぽい。でも違うようにも見える。
せっかくだから原文を読もう。
本は,Thomas Moffet 編著の『昆虫すなわち極めて微少な生物の劇場 Insectorum sive minimorum animalium theatrum』(1634)。ルネサンスから近代への「昆虫学」の過渡期を代表する著作である。
(もちろん)がっちりラテン語である@半泣き。どうせこの本の鱗翅やイモムシの項目は読むつもりだったので,今回はその前哨戦だと思えばいい。
不幸中の幸い。『昆虫劇場』には英訳がある。
Edward Topsellの編集になる『四足動物記 The history of four-footed beasts』(1607)と『蛇記 The history of serpents』(1608)を一冊にまとめて,更に第2巻としてこの『昆虫劇場』のJohn Rowland の英訳をつけた,すべて合わせて1032ページあるとんでもないものが1658年に出版されている。これで脚の数が全部そろった訳だが,この大部の本がどのくらい売れたかは分からない。
とにかく,このような博物学ジャンルの本の需要がある程度高まっていたことがうかがわれる。さすが「博物学の黄金時代」の前夜である。
さて,ラテン語原文とその(古い)英訳が手に入った。重訳はくやしいし,前のプリニウス本のこともあるから,ラテン語との戦いが始まる。(ごめん,ムーアはちょっと後回し)
ひょっとすると,わたしの残りの人生は古典語で摩耗してしまうのではないだろうか。
訳出に当たっての基本方針。
- ラテン原文との対訳を行い,「日本語としてのギリギリ成立しないかもしれない程度の直訳」とする。
- 英訳を中心に,態や品詞や否定肯定をずらしながら滑らかな日本語を作った方がおそらく(ごまかしが利いて)簡単だろう。
- 連中は学生時代に仕込まれているとはいえ,16世紀ではラテン文は擬古文であろう。英訳を見ても右から左とはいっていない。結構苦労している。古文のザラつき具合を表現してみたい気持ちがわたしにはある。
- まして「超訳」的態度なんてまっぴらである。
- おそらく「誤訳」がある。対訳・直訳は「誤りをより明らかにする」効果があるだろう。
- 誤りについては,ご教示いただければ幸いである。訂正は速やかに反映させるつもりである。
じゃあ,はじめようか。
P.246
Cap. XVII.
De Cicindela, & Meloe faemina, acque Anthreno, & Asello aruense.
第17章
ホタル(Cicindela),雌のツチハンミョウ(Meloe),それとアントレヌス(Anthrenus),畑のアセルルス(Asellus)
「アントレヌス」とはギリシア語でスズメバチ。とは言っても厳密なものではもちろんなく,要するに大きめの肉食性の蜂を指すようだ。「アセルルス」はワラジムシやダンゴムシやそれ的な虫。例えばヤゴは「水のアセルルス」である。
Magnae factionis & generis Nobiles cum plebiis conjugio copulari plerunque moleste ferunt.
高貴な党派や家系に属する貴族たちは,平民との結婚につながれることに対してほとんどは不快感を持つ。
まずは枕から。
Tamen Iovem muliebres non dedignatum amplexus Poetae cantant: Cicindelamque & Proscarabeum, sive Meloen (quamvis Aligeri sunt ordinis) cum Depennibus rem habere non pudet.
しかし,ユピテルは軽蔑することなく女たちを抱いた,と詩人たちは歌っている。ホタル(Cicindela)やプロスカラベ(Proscarabe)すなわちツチハンミョウ(Meloe)は(翼を持つものの序列であるのにかかわらず)翅のないものとの結びつきを作ることを恥としない。
Et profecto cum in his faeminis, eadem naturae dignitas & vis adsit, quae in masculis conspicitur, nescio equidem cur eos suae sortis uxorumque distaedeat, quum (demptis alis) animi & corporis item dotibus conspirent.
そして,確実に,雄に見られるその自然の価値と力が,この雌の中にも現前しているだろう。だから彼らが自分たちの妻をその運命ゆえにを嫌うような理由などわたしにはまったく思い当たらない。(翅がなくとも)精神と身体の同じ持参金に同意しているというのに。
おそらく修辞的表現であって,そのように訳出した。さもないと意味が通らない。また「同じ持参金」は「雄と同じく自然から与えられた価値」ということだろう。
Harum nomen, formam, figuram, mores, virtutes, usus, libro primo ( quo de viris ipsarum aligeris multa disputabantur) abunde diximus; & quamvis Impennibus hic debetur tractatus, nolui tamen artis nomine; faeminas a viris sejungere, quas (a primo usque saeculo) naturalis conjunxit amor.
彼らの名称,形態,姿,生態,能力,用途については,第1巻に(そこで論じているのは,多くの翅を持つ,彼女たちの雄についてである)我々は十分に述べた。しかし,わたしは学問的な名目を用いて雌を雄から切り離すことを意図しない。彼らを自然の愛が(最初の種族から絶えることなく)結びつけたのである。
『昆虫の劇場』はもともとは2巻本である。
「切り離す」云々は,要するに当時の分類学的まなざしにあっては,形態が異なれば別種扱いされてもおかしくないからである。なにせチョウとその幼虫である芋虫とが別種に分けられていた時代である。
次からいよいよ「この虫」の記述に入る。
(その2に続く)