手元の資料で調べよう。フレデリック・ムーア。(その20/20)
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ムーアについては,かつて記したように,日本ではほとんど知られていない。19世紀の博物学に関する翻訳書が幾冊も出ているが,そこにムーアの名前が現れることはない。この事情は海外でも同じらしく,彼のことに触れている本がさっぱり見つからない。
ダーウィン『種の起源』が1859年。同時代だから,そちらの方が大事に決まっている。進化論論争とは別のところで活動していたムーアは,結局は科学史に重要な位置を占めてはいない。
彼は『Lepidoptera India』などで東洋の鱗翅目を記載し,しばしば解釈不能な,サンスクリット由来めいた命名を行った研究者としてのみ,今では触れられる。
そもそも,分類学者に伝記や評伝が可能かどうかよく分からない。「分類学は標本を対象とする学問である」と表現があるがあるが,これは伝記的演劇性に結びつきにくいことの良い説明だと思う。
もちろん科学史を見ていくと,業界内政治に熱中したり,半ば妄想めいた自説の主張に一生を費やしたりする学者は少なくない。
そうではなく,部屋でひたすら標本を観察整理し,過去の文献を調べ,カタログを作っていく。ムーアはそういう気質を持ち,そういう生活を送った学者であったようだ。
フルストルファーは次のように書く。
書斎を離れるのは,彼にとってしぶしぶのことでしかなかった。彼がかつてヨーロッパ大陸に足を踏み入れたことがあるとは,わたしには全く思われない。ペンゲ(ロンドンの郊外)のごく素朴な田園風景の中で,彼は社交や都会の気晴らしから遠く離れていた。ロンドンへの旅行さえ大事件だった。
20才前から博物館に勤務して標本のカタログを作り始め,やがて送られてくる政府調査物や収集家の標本に囲まれながら莫大な記載を行っていく。彼は自分の所にいる蝶や蛾が生きて飛んでいるのを見たことはなかっただろう。想像することはあったかもしれない。
よく分からないミスティフィケーションに満ちた命名は,ムーアの唯一の遊び心だったのかもしれない。
1907年5月10日,ムーアはペンゲの自宅で,短い患いの後に死んだという。奇矯なアマチュア学者の零落した死ではなく,多くの業界人の敬意の下での葬儀が行われた。
彼は人生のほとんどを文献と乾燥した昆虫の死骸に囲まれ,それらについて書き続けた以外は,すぐれて常識人だった。
学者としての幸福の範型の一つ,と表現しても構わないように思う。そしてどんな場合でも幸福な人生とは語るには値しない。幸福な分類学者は語られるべき人生を持たない。標本と記載文だけが残る(現代の分類学者はどうなのだろう?)。
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ネットで「ムーア」と「何か昆虫関係の単語」とを組み合わせて検索にかけると,まず「シャドウムーア」が出てくる。これはカードゲームの札の1枚。蛾のデザインだが綴りは「moor」である。
わたしのこの連載記事が出てくる。読んでも面白くない。
ムーアシラホシテントウが出てくる。これの種小名は「muiri」。人名としては「ミューア」。
ムーアキシタクチバが出てくる。現在の学名はHypocala deflorataだが,シノニムがH. mooreiである。和名はこちらに由来している。これはButlerがムーアの『Lepidoptera of Ceylon』の記載から書き起こしたもの。
画像はMoore, 1884-1887, The Lepidoptera of Ceylon, vol. 3, pl. 160から。ムーアキシタクチバは「fig. 5,5a」。
(ぜひ拡大)
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1年かかったムーアがやっと一区切り。折を見てHPで文章をまとめたい。
1年の間にバトラーもウォーカーもどこかに飛んでしまった。
次回は時代をさかのぼる。Mouffet,『Insectroum sive Minimorum Animalium Theatrum』(1634)の鱗翅関係の訳注を始めたい。生物学史的には重要であるが,科学的にはあまり意味がない過渡期の著作であって,日本にはほとんど紹介されていない(「アリとセミの話」(イソップではキリギリス)を扱ったサイトがある程度)。
しばらくは16世紀後半の昆虫学の状況の紹介になる。その後はどっぷりラテン語である。また1年では終わりそうもないがわたしは平気である。どうせアクセスはほとんどないのである。
(この項終わり) 〜(゚△・)ノ オツカレピョーン