『Theatrum Insectorum』の「蝶蛾」を読む。(3)大プリニウスにおける蝶蛾の発生。

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 昆虫研究史は,前4世紀のアリストテレスから1世紀の大プリニウスへと,大プリニウスから16世紀のゲスナーへと三段跳びをする。間がずいぶんとあいている。この隙間隙間には光度の落ちる星々がなかったのではないのだろうが,詳細な史的研究の場面以外では,ほとんど特筆されるべき研究者はいない。
 すでに記述したように,それほどまでにアリストテレスの権威,そして遅れてプリニウスの権威は他を圧している。
 
 では,プリニウスが「蝶蛾(papilio。蝶に限定されない)」についてどう書いているかを見ていこう。アリストテレス同様,彼が「蝶蛾」に触れることは多くない。ほとんど関心もなかったようにすら思える。
 例えば,カイコ(ヤママユ)について,「成虫のカイコがクモのように巣を作る」とか,「木の葉の綿毛を集める」とか『博物誌』にはある。産地の企業秘密だったかもしれないが,プリニウスにもっと関心があればきちんと調べられそうなものである。
 ここでは,アリストテレスの昆虫発生を扱った前回を受けて,蝶蛾の発生についてプリニウスの述べるところを検討していこう。アリストテレスプリニウスからモフェットへは時代を超えてすぐ地続きであって,両権威の記述については見ておく必要があるだろう*1
 
 引用は,プリニウス中野定雄他訳,1986,『プリニウスの博物誌 −第7巻〜第11巻−』,第11巻37,雄山閣,p.198。*2(斜体・記号引用者)

三七 しかし別な生まれ方をする昆虫もたくさんある。(A)まず露から生まれるのがある。春の初めに露がダイコンの葉に宿る。そして太陽の熱によって凝縮し,アワ粒の大きさになる。それから小さなウジが生じ,三日後にはイモムシになる。そして日が経つにつれてだんだん大きくなる。それは動かなくなり,硬い殻をかぶっていて,触ったときだけ動く。そして(B)クモの巣のようなものができてそれにくるまれている。この段階ではそれはサナギと呼ばれる。それからその被いを破り,チョウとなって飛び出す。

 プリニウスの著作は様々な資料の寄せ集めである。この節の原典はおそらくアリストテレスの『動物誌』。
 
 ただし(A)の部分はアリストテレスにはない。他の書物を経由しているのかもしれない。
 アリストテレスの『動物誌』ではこうである。引用は,アリストテレース,島崎三郎訳,『動物誌(上)』,第5巻19章,岩波文庫,p.240。(斜体・記号引用者)

 いわゆる「チョウ」はアオムシから生まれるが,これは緑の葉,ことにラバノス〔キャベツ〕(これを「クランぺー」という人々もいる)の葉の上にいるもので,初めはアワ粒より小さいが,次に小さい蛆になり,さらに,三日たつと小さいアオムシになる。その後生長をつづけて,ついに動かなくなり,形が変わると「蛹」と呼ばれるが,これは外皮が硬くて,さわると動く。(B)クモの巣のような糸で物についているが,口もないし,その他はっきりした部分は何もない。間もなく外皮が破れて,翅の生えた虫が出てくるが,これをチョウというのである。

 少なくとも,『動物誌』や『動物発生論』を見る限り,アリストテレスはアオムシの自然発生について述べていない。むしろ,「交尾するものはすべて蛆を産む」(同書,p.239)とし,チョウの交尾を見たことないとは考えられないので,蝶は蛆(卵)を産むと見なしていたと思われる。
 だから,プリニウスの記述は別の伝承とアリストテレスとの接ぎ木の産物でしかない。アリストテレスが観察していたであろう蝶の産卵をプリニウスはおそらく見ていない可能性が高い。
 ちなみに「露」と訳されているのは「ros」であって,これは「露」としか訳しようがない。本当に露だったら蒸発するだろうが,「詩的・物語的」なイメージであるとは言える。こういう所がプリニウスルネサンス期に広く読まれた理由の一つなのだろう。
 
 もう一カ所。(B)の記述。翻訳文を読む範囲で,プリニウスアリストテレスとでは少し異なっている。
 アリストテレスでは,これはいわゆる「帯糸」の描写。「糸」は原文でも「poros」(管,すじ)で,Rossらによる1910年の英訳でも「filaments」の語が使われている。どう考えても,モンシロチョウかオオモンシロチョウの蛹。
 ところがプリニウスはおかしい。「クモの巣のようなものにつつまれている」という日本語からわたしが連想するのは,モンシロチョウではなくコナガの繭である。
 さて原文は「araneo accreta」。強引に直訳すれば「クモの網で増強される」。Bostockらの1855年英訳では「covered with a web like that of the spider」(クモの網のようなもので覆われた)である。ここから「帯糸」をイメージするのは難しい。モンシロチョウの蛹とは異なると思われる。プリニウスアリストテレス的な正確さを欠くと思った方がよい。
 とはいえ,それでもプリニウスは昆虫学に名を残すべき人物だそうである。例えば,昆虫学者の M. Burr は『The Insect Legion』(1939)で次のように述べている(この本には次回以降しばらく頼ることになる)。

 彼は,手広いが無批判な書き手であって,ヘロドトスよりもずっと軽はずみだった。しかしプリニウスの中に,われわれは宝石のような観察と思索を見いだす。彼は,甲虫には刺針がないと気づき,そして,有針である膜翅目と,双翅目との違いを明らかにした。つまり,ハチがハエでないことを知っていたのである。(p.270)

 うーん。そうなんだろうか。
 
 さて今度はモフェットと関わったルネサンス期の学者たちへ。でもゲスナーの資料があまりないんだ。彼の昆虫関係の著作は見つからないし,原書はとても読んでられないしで。次の火曜に間に合わなかったらごめん。

(この項続く)

*1:どうして「発生」なのかというと,蝶蛾のことは発生しか論じられていないのである。

*2:この翻訳書の問題点については過去記事「プリニウス『博物誌』第11巻第7章の邦訳について」を参照されたい。