手元の資料で調べよう。フレデリック・ムーア(その3)。

(その1)
(その2)
 
 というわけでねえ。諸般の事情でもって,ムーアをゆっくりやろうと思う。
 1858年まで来ていたっけ。幾つかの雑誌の記載論文は省略。
 
 さてと。
 ムーアの働いていた東インド株式会社博物館は,イギリス本国の植民地支配強化のあおりをくらって1858年に漸次縮小解散が決定する。博物館部門は「インド局」へ一端移動され,大英博物館に移されることになる。
 ムーアは1859年に馘首。セクションがなくなるのだから仕方ないのだが,それ以後再就職していない。330ポンドの年金収入でフリーに(つまりムーアは大英博物館で働いていない)。
 この,330ポンド/年をフルストルファーは「bescheidenen (質素な,つましい)」と表現している[Ent.Wbl.]。さてどんな相場かといえば,例えばサイト『SPQR[英国メイドとヴィクトリア朝研究]』の「[FAQ]ヴィクトリア朝の1ポンドって日本円でいくらぐらいですか?」では,

ところで、中流階級のベースが300ポンド(950〜2400万円と)〜1000ポンド(6500〜8000万円)とすると、非常に高額に思えます。しかし、たとえばDudley Baxterが1868年に発表した1867年の推計値(『Useful Toil』P.264、または『イギリス社会と文化200年の歩み』P.172)によると、当時の上記年収ベースの中流階級は世帯数の1.5%に過ぎません。

 とのこと。昔のイギリスの中流は階級的縛りによる出費がいろいろあったに違いないが,ロンドン郊外のペンジ Penge でボチボチ暮らすには十分だっただろう。
 そもそも,自然研究が無償のアマチュアリズムから抜け出しきっていない時代に,これだけの年金をもらえる立場に着けたのは相当に恵まれたことだったように思われる。
 
 大英博物館に目を転じる。バーバー『博物学の黄金時代』によれば,19世紀前半の大英博物館では人文系重視で,自然科学系学芸員のリストラが行われたいう。

数が少なければ仕事はきつくなり,給料も安いから生活のためにはアルバイトもしなければならなかった。年金がつくわけでもなし,職員になった者は死ぬまでこのポストにいる人間が多かった。あるいは頭が変になるまで,ということだが,現に驚くばかりこのケースが多かった。1874年に J. E. グレイが王立委員会に報告しているのだが,年金がないために「職員,助手の心身共に深刻な危機にさらされています。……気の毒に何名かの職員が精神に異常を来しているということを申し上げればお分かりいただけるかと思います」。(pp.239-240)

 とんでもないなあ。
 標本が十分にキープできていて,まあまあ食えるなら就職しない方が賢明なのかもしれない。
 
 ムーアの東インド会社博物館での終わり頃の著作。

  • Scientific results of the second Yarkand mission,Lepidoptera(第2次ヤルカンド調査の科学的成果 鱗翅目),Calcutta :Office of the Superintendent of Government Printing,1879
    • ヤルカンドとは現在の新疆ウイグル自治区の一地方。この調査自体は1873-1874に行われ,その後おびただしい報告書が刊行された。
    • ムーアの肩書きは,「F.Z.S. ETC.」*1,および「Assistant Curator,India Museum,London」。キュレーターというのは「学芸員」。この本の出版時でムーアがまだ職員だったかどうかはよく分からない。
    • 図版。リトグラフはバトラー(A. G. Butler)による。バトラーも学名調べでは常連の学者。つくづく感じるが,この業界は昔も今もあまり広くないのである。

  1. Colias Stoliczkana
  2. Vanessa Ladakensis [Nymphalis ladakensis]
  3. Parnassius Charltonius
  4. Hipparchia Lehana [Pseudochazara lehana]
  5. Baltia Shawii
  6. Polyommatus Lehanus [Albulina lehanus]
  7. P. Kashgharensis 
  8. P. Yarkundensis 
  9. Acronycta Kargalika [Acronicta tridens ([Schiffermüller], 1775)]
  10. Spaelotis undulans [Actebia candida (Staudinger, 1889)]
  11. Taeniocampa Chiklika [Hadula chiklika]
  12. Hadena Stoliczkana [Sideridis stoliczkana]
  13. Mamestra canescens [Hadula trifolii (Hufnagel, 1766)]
  14. Conchyhs Stoliczkana [Eudonia stoliczkana]
  15. Myelois griseola(griseella) [Myelois tabidella Mann, 1864]
  16. Agrotis Tibetana [Euxoa tibetana]
  17. Oxycesta(Oxicesta) marmorea
  18. Euproctis Kargahara
  19. Ptilophora Kashghara [不明]
  20. Heliothis Hyblaeoides [Drasteria hyblaeoides]
  21. Hydraecia Tibetana [不明]
  22. Gnophos Stoliczkaria
  23. Thera Kashghara [Scotopteryx kashghara]
  24. Homaeosoma venosella [Bazaria venosella]
  25. Eudorea granitalis [不明]
  26. Pyrausta cuprealis [Pyrausta silhetalis Guenée, 1854]
  27. Myelois undulosella [Noctuelia undulosella]

 種小名が大文字で始まっているのは固有名詞由来。これはリンネでも同じである。
 Stoliczkaという名前がしきりに出てくるが,ヤルカンド調査に参加した生物学者の Ferdinand Stoliczka のこと。ストリチュカと発音するらしい。『Ferdinand Stoliczka - Wikipedia』を参照されたい。
 [不明]というのは,標本がタイプとして保存されていないのだと思う。
 (この項つづく
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*1:F.Z.Sとは「Fellow of the Zoological Society」すなわち「動物学学会会員」。